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ほとんどのカメラにおいてレンズはしっかりとしたカメラボディーに取り付けられており、レンズと画面の関係は一定である。これに対して伝統的なビューカメラにおいてはレンズは柔軟なベローズに取り付けられおり、上下左右にレンズを首ふりできるようになっている。このことによりピント面を操作することが可能であって、画面に対してピント面は必ずしも平行ではない。ジャン・グルーバーのこの静物写真(アンタイトルド、1985)に見られるように、ピント面を画面に対して直角にすることさえ可能である。p.86,
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上の写真にはショーアがここで言ってるような感覚はたぶんほとんどありません。
ある種の錯覚みたいな重箱の隅をショーアが念入りにつつく理由は少々わかりにくいけど、おそらくこれはグリーンバーグ流のモダニズム芸術イデオロギーを意識しているんでしょう。モダニズムの絵画はイリュージョンを削ぎ落とし平面性を強調するって話があるわけだけど、写真の場合このイリュージョンってのをどう考えるか。絵画の場合の平面性ってのは例えばペインタリーな方向に絵画の基本的質を見ることで明確化出来るのに対して(それだけが唯一の解決ではないにしても)、写真に本来的につきまとうイリュージョナルな奥行き感をすべてイリュージョンとひとくくりにしてしまっては、写真のフォーマリスティックな形式ってものが全く空虚になってしまう。そういう水準において、イリュージョナルな奥行き感と写真の平面性がなかなか厄介な関係にあることを、目のピントと画面のピントのねじれた関係に触れることで意識させようとしている、のかなぁと読みました。
ところでこの原文はさっと読むと少し混乱する。少なくとも僕の感覚ではbackwardは画面の手前方向、つまり近い方向だけど、ショーアは遠くに向かう方向をbackと言う。おそらくbackground方向ってことなんだろうけど、こういう言い方は写真家には自然なのかね。
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ロバート・アダムスによるこの写真(野外映画館とシャイアン山脈、1968)をよく見てみよう。まず、画面の下の端からパーキングロットを辿ってスクリーンへ、スクリーンから右側の山並みへ、そして山並みから空へと意識を移動してみてほしい。
次に、同じ経路で、しかしこの駐車場の奥に向かって、意識がここに描き出された空間のなかを移動していくようなつもりで見てほしい。そのとき目の焦点が変化するのに気が付くだろう。目の焦点は画面よりも向こうに移動するはずだ。
同じようにスクリーンから山並みへと意識を移しても、焦点はほとんど、あるいはぜんぜん移動しない。
山並みから空へと意識を移すと、目の焦点の移動が生じる。だがこの場合、焦点は奥に行くのではなく、むしろ前へ、近くに来るように感じるはずだ。
こうした目の焦点移動の方向と速さは、描写された空間の奥行きとかならずしも関係がない。雲はスクリーンよりもはるかに遠いはずだが、目の焦点は近くなる。p.84,
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世界を写真へと変換する第四のファクターはピントである。カメラというものは、特定の視点から見た単眼的視覚であるばかりでなく、焦点の合った像を結ぶたった一つの面によってそこに描写された空間を階層化するものなのである。この面は通常は画面に対して平行にあり、写真の特定の部分を強調し、そこに写った事物のなかから主題となるものを明確に示す助けとなる。
P.H.エマーソンによるこの写真(葦の収穫期、1886)において、ピントが合った部分(いわゆる被写界深度)は狭く、見るものの意識は葦を収穫中の三人の農夫に引き寄せられる。ピントの浅さは四人目の農夫と背景の沼地から彼らを浮き上がらせている。ピント面はこの情景を見る我々の意識の視野に輪郭を与えるかのように作用している。*p.82,
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数日お休みします。
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時間は二つの面で写真に影響を及ぼす。露光における持続的な時間と、最終的な画像の不動性である。三次元の世界が(二次元に)変換され一枚のフィルム上に投影されるのと同様に、流動的世界が(断片的な時間に)変換されフィルム上の動かない像として定着される。露光は一定の時間持続するもので、ジョン・シャーカフスキーは『Photographer's Eye』においてそれを「バラバラに梱包された時間」と呼んでいる。露光時間の長さは...
何万秒にさえなりうる。...
封じ込められた時間:ほんの短い露光時間は、時間の微細なかけらを切り出し、知られざる瞬間を出現させる。*p.72,
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クラッカーって何だ?冗談なのかね。
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ポートレートを撮るときの「チーズ」というかけ声は、その瞬間が写真へと変換されることを暗黙のうちに意識させている。写真は微動だにせずとどまり、世界は時とともにうつろう。このうつろいが写真によって断ち切られ、ある新しい意味、写真的な意味が定着される。より正確に言うならば、撮影者が「チーズ」と言い、カメラが静かに作動して瞬間をとらえ、誰かの笑顔が残される。あるいはもちろん、式典かなにかでテープカットをする誰かのうわべだけの笑いだったりもするわけだが、しかしそれでも笑顔には違いない。場違いを顧みず例えば「クラッカー」とでも言おうものなら失笑を買うだけだろう。
1964年のある日のテキサス・ステート・フェア会場、男に引かれた雄牛が首をじゃれつかせ、舌が彼の首筋にのびている。男は牛の唾液でべとべとになってしまっていて、顔を背け牛を避けようとしている。こんな状況の中で、牛の舌の反り返りとカウボーイハットのつばの描く曲線がちょうど対称に見える一瞬があり、ある視点からそれが一片のフィルムに定着された。ほんの一瞬、1/250秒だけ、それは一瞬のうちに現れ、再び混沌へと帰ったことだろう。(Texas State Fair, Dallas, 1964, Garry Winograndに付して)*p.70,
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あれこれで今撮りにいけないからそろそろきつくなってきた。
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日本の木版画には西洋絵画よりはるかに写真に似たフレームの扱いが見られる。左から右へと巻物をたぐりつつさまざまにクロップされた状態で画面を見てきた東洋の伝統にそれは由来すると言われている。おそらくこうした版画のどこに写真におけるフレームを思わせるものがあるか検討してみることで、写真のフレーミングとはどんなものかよりはっきり理解出来るだろう。
この錦絵(リンク)の右上をよく見てほしい。振り下ろされる刀を押しとどめようとする天使(化現)の手がフレームによって強調されているのがわかるだろう。天使の姿はおそろしく省略されて描かれ、それが天使であることを我々に伝えるために必要最小限の情報しか作者は残していない。たったこれだけしか描かれていないのに十分その意味がわかるわけで、人間の理解力は実に驚くべきものだ。
さらに右下では画面の外側からにょっきり脚が突き出している。この絵師がなぜこれを描き足そうと思ったのか不思議ではあるが、すばらしい効果を生んでいる。この脚はこの絵のどんな部分とも関係がなく、異質でさえある。だが写真が世界を任意のフレーミングによって切り抜くのとこれはどこか似ていて、この絵が次々に展開していく一枚の絵巻物ではなく、むしろ大きな物語世界の一場面を描いたものだということを暗に示している。*p.64,
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これと次のはエグルストンとショーアの違いをショーアから見るとそういうことなんだと理解しても良いかもしれない。たしかにショーアには画面において世界を再構築して提示しようという意思があるかな。まとめて2ページ。
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フレームはまた積極的なものである場合もある。その場合、画面の組織はフレームから発しその内側に向けて作用する。
ここに示したある都市のランドスケープ(El Paso Street, El Paso, Texas, 1975,Stephen Shore)において、そこに写っている建物や歩道、空といったものがこの写真の外側にも連続していることを我々は当然知っているのだが、それでもこの写真の世界はこのフレームの内に封じ込められている。この場合写真は世界の一断片ではない。*p.62,
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写真にとってフレームが消極的なものである場合がある。その場合、フレームは(単に)その画面の端部であって、画面の組織は画像の内部に発しフレームへと外向きに広がる。
ウィリアム・エグルストンのこの写真(Untitled, c.1970)において、前景の道は住宅地のはずれにある松の茂みまでのびてそこで行き止まりになっているのだが(だからといってその向こうに全く違う世界があるのではないのと同じように)、この写真のありかたは世界がその縁を超えて広がっていることをその構造において暗黙の前提としている。*p.60,
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ヘレン・レーヴィットによるこの写真(New York, c.1945)の正面に写った男たちは、互いにある視覚的な関係にあるだけでなく、このフレームの辺とも関係づけられている。フレームによってこれら人物の周囲の間合いが生き生きしたものとなっているのだ。椅子に座ってなにかを凝視する右側の男、左側のだらだらとおしゃべりをしている二人の男、狡猾で気難しそうな中央の男、こうしたバラバラな振る舞いがこの構図の質によって一つのまとまりを得て、1940年代のニューヨークの喧噪を感じさせている。
*p.58,
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翻訳としてのルールを外さないと日本語にならない。読み返すとげんなりするな。
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フレームは写真の内容を囲い込む。モノだろうと、人間だろうと、出来事だろうと、無差別に。そこになにか図式めいた姿が現れることがあり、写真家はフレーミングにおいてその図式をとりわけ意識し巧みなフレーミングによって強調する。雑多なもののなかからフレームは共振するものを浮かび上がらせ、見るものの注意をしかるべく誘導する。
単眼的視覚によって画像上にさまざまな線や形態の並置が生まれるのと同じように、画像の縁によって線と形態とフレームの関係が生まれる。その関係は視覚的なものだが、同時に内容を示唆するヒントともなる。*p.56,
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うーむ。写真は翻訳とはまったく関係ありません。
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変換の第二の属性はフレームである。写真には縁があり、世界にはない。フレームの縁はなにが画像の中にありなにが外にあるかを分つ。(Clear-cut along the Nehalem River, Tillamook County, Oregon, 1976において)ロバート・アダムズはカメラを敢えて少し右下に向け、根こそぎ伐採された西部の山林の風景に鉄道のレールをフレームに入れることで、イメージの内容と意味に冷酷な現実の響きを与えている。*p.54,
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この状況を整理して写真を撮るにあたり、写真家は画面を組み立てるというよりはむしろ解体している。(Friendly, West Virginia, 1982, Nicholas Nixonに付して)*p.53,
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このあたりほんと長いこと行ってないな。このビルはもう出来てるんかね。
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厳密にコントロールされたスタジオから出て野外で撮影しようとすれば、写真家は互いに無関係なものが視覚的に並置される複雑な絡み合いのなかで、一歩ごとに変化する情景に向き合わなければならない。一歩ごとになにか隠れていたものが姿を現し、前景が迫ってきて背景を覆い隠す。一歩進むことで奥行きのある空間が見通しよくなることもあれば、逆に状況が見えにくくなることもある。*p.48,
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写真は「透明」になることもある。視線は画面に引き込まれ、イメージのイリュージョンに入り込む。*p.46,The_Nature_of_Photographs

これは違うか。そんな都合良くうまく合う絵があるわけない。ちなみに提示されてるのはトーマス・シュトゥルートの森の写真。
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写真は「不透明」になることもある。視線は画面の上に落ち、その奥を見通すことはできない。*p.44,
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ステレオ写真でない限り、写真は一個の視点による単眼的視覚である。だから写真は二つの目によって我々が知覚しているような奥行きの感覚を持たない。三次元の空間がある平面に投影されれば写真が撮られる前には存在しなかった関係がそこに生じ、背景にあったものが前景と委細構わず並置される。視点のいかなる変化もそうした関係を変えずにはおかない。顔の前に指を立て片方ずつ左右の目で見てみれば、たった5センチのこの視点の差がどれほどこの視覚的関係を変えてしまうかわかるだろう。
リー・フリードランダーのこの写真("Knoxville,Tennessee,1971")に写っている傾いた標識や雲自体はそれぞれカメラの前に実際あったものだ。だが雲が標識の上に綿菓子のようにちょこんと乗ったように見えるという視覚的関係は、写真的視覚によって生み出された新しい関係なのである。*p.42,
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ふと気が付いたんだけど、ひとつ訳し忘れてました。戻るのもなんなので、後回し。
主にモノクロのプリントを念頭に置いて、トーンってものがケミカルとテクニカルによってもたらされるものだって話。だけどそこに提示される画像がアルミの上にアクリル塗料でプリントされたとてもビューティフルなモノクロだっていう底意地の悪さが良い(たぶん一種のシルクスクリーン?)。この本の文章は読んでわかる通りかなりストイックだけど、ショーアのアイロニカルなところがあちらこちらにチラチラ見えてる。
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変換の第一の属性は平面性である。世界は三次元的であり、写真画像は二次元的である。この平面性のために、描写された空間の奥行きは常に画面との関係において成立する。レンズが投影する像の領域の一部が画面となる。写真画像はこの画面上に写し込まれるのだが、それは同時に世界の奥行きを錯覚させる奥行きを持つ。*p.40,
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写真画像は特定の形式的制約のもとで世界のある側面を描き出す。エヴァンスのこの写真("Mining Town, West Virginia, 1936")には、ある商店、ガソリン給油機、車、道、丘と家並みが写っていて、全体として傾斜地の様子が捉えられている。
ある画像の形式的な特質は一定の物理的光学的要因によってもたらされ、それらの要因が写真の物質的レベルを規定している。これに対して描写レベルにおいては、平面性、フレーム、時間、ピントという4つの属性に沿ってカメラの前の世界は写真に変換される。
4つの属性は写真の描写内容とその構造を規定しており、それらに応じて写真の視覚的文法が形成されている。ピンぼけの写真、肝心な部分が見切れた写真、画面がゴチャゴチャしてなにを写そうとしているのか不明確な写真、シャッターチャンスを逃した写真、といったマズい写真の欠点はこれらの属性に帰結する。そしてこうした属性は、写真家が世界をどのように捉えているかを表現し、彼らの認識に構造を与え、意図を強調するための手段となっている。*p.38,
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描写レベル
写真は本質的に分析的な分野である。画家が真っ白なキャンバスから絵を描くのに対して、写真家の場合はとりとめもない世界を前にすることから彼の仕事が始まり、そこで撮った写真をセレクトすることで一枚の写真を得る。家や通り、人々や木々、そして社会が生み出すあれこれを前にして、写真家はその光景にある秩序を見出し、ごたごたにある構造を与え整理するだろう。見通しの良い立ち位置を見極め、撮影のタイミングを選択し、ピント面を調節することで、彼または彼女はそこにある秩序を見出すのである。*p.37,
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享年17歳でした。
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ある視覚的スタイルを意図的に選択することによって、写真家は写真の読み取りに対してある種の文脈や意味の手がかりを与えることが出来る。例えばウォーカー・エヴァンスが、彼が言うところの”ドキュメンタリー・スタイル”を採ることでそうしたように。*p.34,
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